
日本ではあまり同列で語られることはないように思うが、人種差別といじめというのは同じ構造を持った種類のものだなあ、と思う。
今、日本ではいじめ問題は子供社会でも、大人社会でも大きな問題となっており、私もそれらのニュースには食いついているけれども、いつも思うことは、これだけ問題となっているのに同じようないじめによる悲惨な結果が後をたたないというのはどういうことなんだ?ということ。
客観的に海外から日本の状況を見ていると、先輩を敬え、とか、先生のいうことを聞け、とか…日本の社会の中にはいたるところに序列や分断があって、いじめが発生しやすい環境が整っているなあ、と思う。外国人の数が増えているとはいえ、日本はまだまだ欧米諸国と比べて単一民族国家と呼ぶに等しい国で、要するに誰もがアジアに属する日本人であるにもかかわらず、だ。
最近は学校のクラスでもカーストとかリア充組とか、主人の勤める企業が立派な大企業だからうちは他とは違うとか、、、マウントをとる傾向がさらに?強くなっている気がするけど、人種差別が歴然と存在するヨーロッパに住む私からすると、同じ民族でごちょごちょとナニせこいコトやってるんだ~!と声を大にしていいたい。
ハッキリ言うと、日本で勝ち組であろうと、カーストのトップであろうと、世界の人種という枠組みで考えると、日本人=アジア人は一人残らず全員差別される側にまわるのだ。誰一人として勝ち組には属することはできない。そのことを忘れてはいけない。
そのことを踏まえて、残酷なことを言えば、日本でいじめられやすい人は海外に行くと人種差別にあう可能性は高い気がする。人種差別といじめは同じ構図なので、立場の弱いアジア人はよりターゲットにされやすいからだ。
また、意外かもしれないが、日本でいじめっこに分類される人も危ういように思う。何故ならいじめっこも、序列を作って自分の立ち位置を確保するという、メンタルがそもそも弱い人間なので、人種差別という見た目100%の世界に入ってしまうと、どう対処してよいのか分からなくなるに違いないのだ。
そういえば、昔、会社のお偉いさんで、会社では周りの部下に向かって超威張り倒しているのに、外国人のお客さんの前で、へーこらぴーこら…なんだこりゃ?てくらい小さくなってたおっさんがいた。私はまだ大学を出たばかりの新卒だったが、なんと情けない…と思ったことか。しかし、悲しいことに…日本人はこういう人がけっこういる。
海外で人種差別に遭遇しないために日本でできること。それは、自分がいじめる側にもいじめられる側にもならない強いメンタルを育てていくこと。これしかないと思う。
私自身、あんまり差別を体感したことはない。これはたまたま、とか、ラッキーとか、そういうことではなく、自分自身がきっちりと対処できる法を小さい頃から身につけてきたからではないか?と思う。幼児の頃でも大人に対して負けない言葉を持っていて、子供が半人前扱いされる日本で育った割には大人に対しても平等を貫いてきたほうではないかと思う。クラスメートに対しては…小さい頃は相手を泣かしてしまうことも多々あるくらいでちょっと強すぎちゃったくらいだけど…💦。
それは大人になっても同じで、上司に対して、先輩に対して、後輩に対して…誰であっても
本人にきっちり言ってしまうタイプである。特にきっちり
本人に物申すのは勇気がいることだけれども、それでも、裏で誰か別の人に文句を言うくらいならば本人に言うべし!を持論にしてやってきた。何より、裏で「こうなんですかね?」なんて憶測で話を進めるくらいなら本人に直談判するほうが相当手っ取り早くスムーズなのだ。
もちろん、誰かに対してモノだけ申す人は単なるうるさい人で嫌われてしまう。そうならないために必要なことは、普段から自分と関わる人々の信頼を得る行動を取っておくことが最低条件になる。また、そのために自分に必要なことは相手を理解する寛容性なのだ。相手を理解できなければ信頼を勝ち得ることなんて不可能なのだ。これは対人関係の基本。
いずれにせよ、誰かに何か言うということは勇気のいることで、小さい頃からのこの勇気の積み重ねが…人種差別で差別される側に立たなければいけない海外においても自分自身を平等の立場に置くことができているんじゃないか、とそんな風に思う。日本で上司や先輩方に対して決してひるまなかった私は白人や黒人に対してもひるむことが今はない。あとで悔しい思いをする、誰かに悪口を言うくらいなら、今、その場で言って解決するのが一番なのだ。
今、日本での対人関係を見ていると、逃げろ、とか、嫌な人との縁を切れ、とか、…逃げ腰の論調が多い気がする。そりゃ、子供がいじめで自殺しては元も子もないし、最近の困ったモンペやクレーマーのような人たちは…なんていうか、説得したらナットクする、とか、常識が通じる、なんてそんな簡単なものではなくて複雑になっているけれども、でも、このまま野放しにしていい問題でもないと思う。もちろんどうやっても合わない人、自分を嫌っている人とまで仲良くする必要なんかないけれども、最近は割と簡単に自分からパターンとシャットダウンしてしまう人が増えているような気がする。
しかしながら、大事なのは逃げることではなく、ひとりひとりがやってはいけないことを見逃さない勇気なのではないだろうか。クラスでクラスメートがいじめているのを見かけたら傍観するのではなく、「それはダメでしょ」といえる勇気を持つこと。その勇気こそが、人種差別にも立ち向かっていける力になるのだということを、私は断言したい。
…とこんなことを書いているが、私自身、小学6年生の秋から冬にかけて、大事な幼馴染がいじめられているのを見逃してしまったという…深い反省がある。なんであのまま助けの手を出せなかったんだろうか?と考えてみると、自分自身、受験生で忙しかったのかな、とそんな風に思う。もう自分はこの学校も友達もみんなと別れて別の場所に行くのだから、と打算的に物事を先送りしてしまった。
結局その幼馴染も地元には残らず東京に行ってしまったので、二人だけがその場から去ったのだが…成人になって結婚式にも呼んでもらったけど、自分自身の後悔は消えてなくなることはない。
昨今、、、なんとなく感じるのは、日本の格差社会である。よくYahoo!のコメントなどを読んでいるが、公立に行くと荒れているから私立に行かせたい、できるだけ自分と似たような所得層の人がいる学校に入れたい、限られた人間関係の中で安全に子供を育てたい、というような意見が多いような気がする。
その意見に反対はしないけれども、しかし、海外の人種差別にも打ち勝てるような力をつけたいと思うのであれば、なるべく色んな人がごっちゃりと混ざった学校に入ったほうがいいのでは?と思う。そもそも親はずっと子供をかごの中の鳥にしておくわけにはいかない。
子供というのは、親が思うよりも色んなことを考え、そして親よりもずっと正義を考えている、と私は思う。色んなことに対処できる力をつけるのは結局、本人でしかないのだ。なるたけ若い10代までのうちに色んな人と関わるようにしておくことが長い人生をうまくやりくりできる人間性を身に着けることができるんじゃないかな?と思ったりする。
2020年の今年、教育改革で小学校でも英語が取り入れるようになるらしい。ちょっと、私はフフフと鼻で笑ってしまいたい思いがある。英語がしゃべれる=グローバルな人間では決してないのだ。いじめ問題も全然解決されず、大事な人間関係を築くというところに蓋をして、成績をつける学問だけを増やして忙しくしていくとは、いかにも今の日本らしい教育だと皮肉をいいたい。
いじめに対処できない人間は人種が複雑なグローバルな社会ではさらに困難が付きまとう。そして、すでに言った通り、私たちアジア人は全員見た目で損をする、差別される側にいるのだ。
その差別と正々堂々と渡り合っていくために必要なことは、英語力では決してない。人間力なのだ。
1.誰にでもきちんと本人に自分の思いを伝えられる勇気
2.自分の思いを受け入れてもらうために普段から勝ち得る信頼力
3.自分自身が相手を信頼するために必要な寛容性
子供がグローバルな社会でも活躍できるような子に育ってほしい、と思ったら、まずできることは親である自分自身がこの3つのことを実行し、子供の信頼を勝ち得ていくことなのではないかと思う。
人種差別…というとどこか日本以外の対岸の出来事のように感じるかもしれないが、それはいじめの延長上にあるものだ。そう考えるとグローバルな社会で生きていくためにできることは、まず身近ないじめ問題から対処していくこと。
今の日本の状況を見ると、グローバル、グローバルといいつつ実情はどんどん逆方向へ進んでいるのではないかなあと感じることが多いのは気のせいだろうか。
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